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ぽったの方、さっきカウンターを確認したら10001でした……!!!!
シンメトリーですよシンメトリー!テンションあがる!
ていうかもう1万ヒット……!!
1万もの回数、さまざまな人がこのサイトに訪れてくださったと思うと、とてもとても嬉しいです。本当にありがとうございます!!
それなのに常に更新するする詐欺で申し訳ないです……。
なかなか思うように更新できなくても、それでも精一杯頑張って、楽しんで彼らの物語を綴っていきますので、どうか少しでも楽しんで、ご愛顧頂けたら幸いです。
これからもよろしくお願いします!
オリジナル、10月に続き11月の更新も落としてしまったΣ( ̄□ ̄)
うっかり
ぬっかり
卒論は草稿を一度提出したんですがのぅ(´ω`)
終わらなくて大変な感じです。ほんと。
あとずっと具合の悪かった腸の検査を受けまして。
すっげー辛かった。
汚い話なんですが、
腸の検査ってお腹の中を強制的に全部空にして下から内視鏡ってカメラを突っ込むんですね。
お腹を空にするために3日前から食事制限して検査前日の20時以降絶食し、液状の下剤を2リットル飲むんですね。
この下剤がまずクソ不味くて大変だし、検査が順番によっては午後遅くになることもあって検査後もすぐ食事ができるわけでもなくて空腹も半端ないし、また空腹なところにクソ不味い下剤を2リットルって相乗効果も大変なんですよ。気持ち悪くなるわ。
さらに検査もリアルに内腑を掻きまわされるわけで酷い苦痛を伴うんですよ。辛い。てか前回は5分くらいで終わったのに今回前と違う先生でウチが激痛に耐えきれずに顔を歪めうめき声をあげる上で「これなんだろうね~」とか言いながら何度も内視鏡上下させるし内壁の凹凸を見るための検査薬を何度も何度も振り掛けるし本当人間じゃないと思った。
分っかんねーならいーよ!
誰も医者が万能だなんて思ってねーよ!
でも炎症起こしてるところに異物ぶっかけたら痛いに決まってんじゃん!バカ!
自分の栄養となる食べ物でさえ異物とみなして痛みをもたらすというのに。
そんな状態が去年の11月からずっとで。
何か飲み食べると痛いから外でお腹すいてももの食べらんないし。でも大学まで往復で4時間かかるしゼミは18時からだから必然空腹だし。空腹だし空腹だし!低血糖でふらふらする。
でも検査受けてから悪化した。食べなくてもずっと痛い。ほんと辛い。
職住近接万歳。東京とか嫌い。てか意味分かんない。
しかし昨日は高校の同級生に会いに吉祥寺まで行ってきたんだよ。腹痛のせいで30分遅刻したけど。
癒された……。
てか彼女ほど会ったあとに一緒に居て幸せだなぁってしみじみ思う人いない。愛してる。
性的な意味じゃなくてウチ女の子大好きなんだけど、最近それって自己防衛の一種かと悩んでたんですよ。ウチにとって好悪の感情って自分を足らしめる重要なものだから、それを安易に自分を守るために使っているなら考えないといけないなぁと思ってたのだけど。心地よい関係ならよいけど自分を守るためだけなら対人関係っていう自分が成長できる一番有効な手段をみすみす水に流してるようなものだからね。
それに好きになれない相手なら、まぁお世辞を言うこともあるけど、思ってないことは言わないようにしたいと考えている。
それでちょっと悩んでたんだけど、違ったね。自己防衛じゃなかった。そもそもウチが女の子好きになったのは高校時代で、ぶっちゃけた話それ以前は自分の周りの本当ごく少数の関係者以外、人間自体にあんま興味なくて。中2くらい?であることが起こって、中3でちょっと変わって。で高校で女の子……ってか、友達を好きになったのかな。
それ以前も好きは好きだったんだけど、ちょっと違う好きになった。なんか少し相手を見れるようになったというか。友達っていうのが自分にとって大事な相手だと気付いたというか。幸せでいてほしくなった。
そしてその頃、女の子の友達をゼロから生じたプラスで好き!だった。で、しょっちゅーそれを伝えてましたね(*´∀`*)まさに溢れたように。
だから自己防衛ではなかったと結論付いた。
しかし代替だったかもしれないと気付いた。
てかかもしれないってか、大分そうっぽい。可愛いがってるゼミの後輩から最近逆に「可愛い」「好き」って言われて「え、ウチらそんな仲よかったっけ」と戸惑ってしまい←
勿論純粋に可愛いとか好きって気持ちもあるんだけど、言ってるほどではないっていうか。増幅?今風の言葉でいうと盛ってるってヤツですね!(*´∀`)
失礼極まりない話ですね。
反省した。
今日は朝方の豪雨のため空気が綺麗でしたね。雨上がりの空気って好きです。
はー、大学生ってすごくいい身分だけど地元に就職決まってるから早く卒業したい。
ピンチです。
昨日から卒論を書き始めたのだけど思ったのより全然進まないっていうなあああああ
書き始めたと言っても昨日は20分くらいで今日も4時間ほどネサフやらに費やしてしまったと言っても、言ってもさ!
ウチが普段レポートを書くとき一時間あたりの字数が700~1000字であることを踏まえて、昨日からやってまだ2000字ってどゆことうそでしょないでしょ。
明日はサークルのみんなでディズニーのアフター6に行ければ行く予定だったんですが、え?これ行けるの?(提出は木曜)
うううお風呂出たらまた頑張る……明朝までに1万5000はいかないとなぁ…
現実逃避で鹿がホグワーツ卒業後マグルの大学に通う妄想が楽しすぎる。
生存報告がうっかり私論になった……。
ども、コウです!
一個前の記事が思わず堅い内容になりました。
なんだかいつの間にかね、難しい言葉って使っちゃいけないような気になっていたのだけど。まぁそれも一種の最適化の内でね。でも違うなぁ、と。
難しい、ってなんだよ。
と。
そりゃ話してる内容にはね、難易の差があるけど、同じ日本語に、単なる語彙として難易がある訳がないんですよ。言語を習得する段階でもなければ。難しいって言われるのは、単なる一般性の程度の違い。易しい言葉ってのは一般性の高い言葉、広く流布されてる言葉、言い換えればありふれた言葉。
認識や表現という面では、言葉とは即ち世界の構成要素。だから語彙を限定することは違う。世界を自分から狭める意味なんてない。だから当たりのいい言葉ばかりを選ぶようになれば、鈍したと感じて当たり前。重要なことは、一般性の程度ではなく認識にまさしく沿った言葉を選ぶセンス。
ということを思い、ちゃんと言葉を使っていこうと思ったのです。でなければ、どうして伝えられるものかと。自分の境界線すら踏みしめられない。立ってる場所が自分かどうかも分からない。感情や思念が発露する主体、それこそが私なのに。
文章を書く、というのは私にとって私を踏み固めること。言語化しときたいって思うよ!
そんなこんなで最近のウチ。
まず太もも太くなった。
筋肉が落ちて肉がゆるんだ…。さりげなくショック。スカートのミニとかショーパンっていつまではける?てか冬服がくそ可愛い……!!コート欲しいよコート。普段は俄然ダウンジャケットを愛用する派なんですけど(防寒的な意味で)、昨日卒論やるために図書館行ったら、同じ駅ビル内で売ってたダッフル素材で襟にファーがついた短めのライダーズジャケットがすっごい可愛いかったんですよね。欲しい……。
それかやっぱりダッフル素材で短めのチェックのコート!黒のチェック超好き!でもチェックのコート、今年は流行りだけど来年着れるか微妙だと思うんですよね……。
あーコート欲しい冬服欲しいとりあえずチェックのショーパン(3000円)は買う。
でも昨日の青地のボーダーのカーディガンも可愛いかったなー!!8000円だから買えないけど!一着に出せる金はせいぜい4000円だもの。
さぁて卒論やらんとなぁ。
木曜までに3万字。てことは1日7000字強か。
無理だ!
生きてます。
もうほんとね。ほんと更新するする詐欺いくない……。ハロウィンは終わっちゃったしオリジナルの更新も落としちゃったよ!ううう、文章書けない…。本当文章書けないです。てか頭の中がとっちらかって。自己の定義が曖昧です。何かあった訳ではないのだけど、強いていうなら人と居すぎたかもしれない。
自分というものの定義を、私は身体の定義と同じに捉えている。私を形作っているのはこの爪の先まで。個体として存在し空気と混じわらず確立している境界線まで。精神は形を持っている訳ではないけれど、油と水が混じらないように、明らかに空気とは異なる要素の群体、交わらない個体、ここまでが私。
でも他人と交流することは、多かれ少なかれ演じる自己という型を填めて相対することになる。これは自己防衛とかそういうものではなくて(勿論そういう面があることも否定はしないが)、温度変化、のようなもので。
自分というのは流体のようなものだと考える。流れ移ろい、色を落とすスライムのようなものだと。その本質は変化だ。
しかし翻り、他者と対するには見える必要がある。成形された固体である必要がある。流体は反射的に固体化するが、傾向として、その条件が繰り返す内に流体の状態に関わらずに記憶された固形をとろうとする。つまりそれが型だ。
経験を積むことによって固体化は洗練され、社会活動によりふさわしい型へと最適化される。固形(つまり演じる自己)と流体(そのものの自分)との齟齬が大きいほどストレスが大きい訳だが、齟齬が大きい場合でも、そのそもそもの固体化は流体が固まった形であることが問題を厄介にする。
問題の本質は、流体は絶えず変化するということだ。
固体は確かに自分の内であるが、しかしそれは一部であり全てではない。流体の中には主義主張の全く相反するものが含まれていて至極当然である。つまり一人の人間の中に多様な価値観というのは存在しうる―――少なくとも、私には。
しかし外部との交流においては、一貫性が信頼となりうる。見えるもの、見たもの、触れるもの、交流する度に相対しているものの形を理解していく。だから、意見や主義主張は同じであることが望ましい。交流を繰り返す度に固形は強固になる。凝固する。
ここで、固体化は誰が行うのか?という問いが重要になる。固形は誰が形作るのか?
これまで考察してきたように固体化が他者との交流のためにあり、他者の理解のためにあるということから導けば、それを行うのは他者であると仮定できるだろう。つまり、他者が私を認識する。
このとき、他者は私を認識するが、しかし固体が流体の一部であったように、その認識はあくまで部分であり、“私を認識するのは他者である”と言い換えることは出来ない。他者の認識が全てではなく、主従の関係は重要だ。
しかし他者といすぎるとストレスを感じるというのは、他者が認識している私という固体と流体とに齟齬があり、齟齬があるまま固体化を繰り返すことにより演じる自己が流体の自分を侵蝕しているということである。
文章書くことは私にとって重要である。文章を書くとは私の言葉を綴ることであり、他者を介さない視認化であり、何よりも素直な流体の発露であるからだ。
それ故に凝固が進めば言葉を綴ることが難しく、流体がうねっているときは言葉が溢れる。溢れた言葉で詩が出来る。
凝結状態で文章を書くことは難しいが、しかしまた一方で翻り、書くことによって流体の状態を取り戻す手助けをすることもできる。自分の境界線を踏みしめるように。今私が行っていることがまさにそれである、まどろんでいたことを自覚し、これから必要なこともそれである。